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秋篠宮と北海道は深い関係がある。それは、丘珠ヒグマ事件に関係するアイヌ語と明治天皇の指示による北海道開拓である。他、川嶋紀子が皇室入りした理由も解説する。

秋篠宮と北海道は深い関係がある。それは、丘珠ヒグマ事件に関係するアイヌ語と明治天皇の指示による北海道開拓である。他、川嶋紀子が皇室入りした理由も解説する。

【1-秋篠宮紀子様の家柄と満州及び軍部の関係性|満州事変と張作霖爆殺事件の背景】

此処で一つ、大変恐縮ながら調べてみたのであるが、川嶋(秋篠宮紀子の実家)の先祖である、池上等、警察官僚も多い家系のようだ。

それらは、戊辰戦争に絡み、更には、第二次世界大戦に直結する満州事変に絡んでいる決定的な事柄を指摘する事ができる状況に繋がっている。(戦後の歴史捏造・自己正当化の策謀に関しても同様である)

まず第一に、川嶋(秋篠宮紀子)の家系は、特別高等警察含む警察官僚の家系であると同時に、『大日本帝国陸軍陸地測量部隊』に携わると共に、マルクス思想や自由主義といった思想に関する調査研究をおこなっていた人物も居るようだ。

※小菅智淵陸軍参謀本部初代陸地測量部長

※池上四郎警察官僚(特高絡み)

※杉本嘉助・服部俊太郎(南満州鉄道)南満州鉄道

これら事柄を基に、第二次世界大戦に直結する事を以下に解説してゆく。

満州事変の『三年前』にあたる『1928年』に、『新聞赤旗』が発行された。

この『1928年』に、『張作霖爆殺事件』が発生する。

それから『三年後』の『1931年』に、満州事変が勃発している。

この時、一説によると、満州鉄道の調査部員に、人員不足から自由主義やマルクス主義の者が居たとの説があるが、調査部という重要な部署に、思想絡みの人員を配置する程の危険を冒す必要性は見当たらない。

人員の調達に際し、それ相応の身辺調査も行われるのが部署の特性上、最低限行われているはずだからである。

当時の鉄道とは、国家にとって重要なインフラである為だ。

この際に、最低限の調査すら無いのであれば、それは何の為であるのか、意図して共産思想やマルクス思想の人物を入れたのか? という疑惑が浮上するのは当然である。

その様な意図が働いていた場合には、どの様な意味合いがあり特定思想の人物を起用したのか、裏を疑わなくてはならない事柄となる。

※満鉄調査部:南満州鉄道内の調査機関

張作霖爆殺事件の写真(画像)

※画像:『張作霖爆殺事件』

【時代背景に関連する明治天皇及び北海道の地名に関する裏の意味】

先述の事柄は、1928年から年代を遡る事、110年前と、346年前に繋がる。

346年前、織田信長が平家を名乗り、全国統一の大義名分を手にした事柄や、『平家の旗』は『赤い旗』である事などが挙げられる。

次いで110年前、『伊能忠敬(商者)と測量』であり、平家に関連する「祇園精舎の~=擬音商者」と「測量部隊」が繋がる事になる。

織田信長にて「縁起を担ぎ」、伊能忠敬で「平家流れの商者(諜報)」と「国土拡大の為の測量部隊」とを掛け合わせ、明治維新で北海道開拓、後の満蒙開拓に繋げると同時に、謀略によって不利益が生じた際には、責任集約の為、平家の仕業であるとの保険を掛けていた事が見えてくる。(詳細は、後ほど公文書を提示し解説する)

平家の赤旗と共産主義の赤旗を掛け、「平家狩り≒赤狩り」といった状況の構築が生じている事が見えてくるのである。

また、先に述べた、時代の流れをトレースすると、『明治維新』から、神仏分離令・神社合祇令・満蒙開拓・『北海道開拓』・第二次世界大戦の疎開先としての満州・引き上げ後の北海道移住に繋がってくる事が見えてくる。

明治維新と北海道開拓に関して、『重要なキーワード』となってくる事は、

上記の土地と神社が、明治維新と謀略に繋がる鍵であり、北海道という重要な土地に対する関連付け、及び、裏の意味合い、言い逃れの為の保険となる。

それでは、どうのような保険が掛けられているのか、裏の意味と、土地にまつわる縁起担ぎについて説明してゆく。

まずは『明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)』について。

北海道(蝦夷地)はアイヌが住んでいる土地でもある事。

丘珠という地名は、アイヌ語で〝オッカイ・タム・チャラパ(アイヌ語で男が刀を落とした場所)〟を、地名語源とするという〝一説〟がある事。

明治天皇は、無類の日本刀好きであった事などから、この地名に対する裏の意味合いが見えてくる事となる。

それは、日本刀と武士に関して言える事であり、戦の道具としてではなく、武士の魂とも言われる程、武士が持つ日本刀に対する心を表しているものであるという点からである。

したがって、〝丘珠〟という地名には、『武士の魂である日本刀を落としてしまった所』という意味合いが〝一説〟見えてくる事になる。

それでは何故、私が「丘珠という地名は、アイヌ語で〝オッカイ・タム・チャラパ(アイヌ語で男が刀を落とした場所)〟を、地名語源とするという〝一説〟がある」というふうに『一説』としたのか。

これには、〝北海道弁(方言)〟が関連している。

北海道弁で『おっかい(オッカイ)』と言うと『怖い』という意味になるからである。

ようするに、アイヌ語で〝オッカイ・タム・チャラパ〟とは、アイヌ語が北海道弁に影響を与えていると仮定した際に、『オッカイ・タム・チャラパ=怖い土地』という意味になるからである。

※その他にも、アイヌ語と照合すると見えてくる仮説もある。

『オッ・カムイ・タプ・チャ・ラパ=神が居て(カムイ)、切り刻まれて(タプ)、食べられる≒口(チャ)、場所(ラパ)』

したがって、この仮定が正しいならば、丘珠という地名の由来に関して、『明治政府にとって都合の良い解釈をした』という事が浮上してくるのである。

では、どの様に都合の良い解釈がなされているというのか。

それは、『明治天皇は謀略を嘆いていた』したがって、『武士の魂である刀を落としたのである』、『したがって天皇に謀略の責任は無い』という、責任回避の為に付けられた地名という事になるだろう。


尚、明治11年、丘珠村で『札幌丘珠事件(丘珠ヒグマ事件)』という凄惨な獣害事件が発生した。この獣害事件は、日本史上で5本の指に入る熊害事件である。当該、獣害事件において駆除されたヒグマの個体は、クラーク博士で有名な札幌農学校(北海道大学の前身)で解剖された。この時、ヒグマの解剖を担当した人物に、5千円札で有名な新渡戸稲造居る。当該ヒグマは剝製にされ、開拓使博物館に仮保存された。

この事件から〝3年後〟の明治14年、北海道に行幸中の明治天皇が当該ヒグマの剝製を閲覧した。

※札幌丘珠羆事件:明治天皇と札幌丘珠村アイヌ語で男が刀を落とした場所

現在、当該ヒグマの剝製は、北海道大学付属植物園(北海道大学付属博物館)に保存されている。

尚、ヒグマの剥製はバックヤードに保存されており、一般公開はされていない。


また、現在話題となっているアイヌも存在する。

それは、『イランカラプテ(こんにちは)』である。

イランカラプテ(こんにちは)は現在、政府中枢が主導するアイヌ政策でプロモーション的位置付けで広報されているアイヌ語である。

ところが、『イランカラプテ』を、『オッカイタムチャラパ』のようにアイヌ語辞典を基に解説すると、『イ(私は)・ラン(降りる)・カラプテ(樺太)』となる。

すなわち、『私たちは、樺太から降りてきたアイヌです』という、樺太アイヌの自己紹介になるのだ。

ところが、『こんにちは・あなたの心にそっと触れさせてもらっても良いですか(こんにちは)』というアイヌ共通の挨拶とされてしまっている。

『イ(1)・ラン(2)・カラプテ(3)』という単語区切りの言葉は、それぞれ、アイヌ語辞典でもその意味合いが明記されている単語であるにも拘らずである。

よって、現代でも明治時代の謀が継続されている事が明確となってくるのだ。

【仁和寺宮の蝦夷地開拓に関する公文書】

仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(小松宮彰仁親王)暗号文書

仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達

簿冊標題:公文録・明治元年・第四十五巻・丁卯十二月~戊辰十二月・皇族伺

《掲載している公文書について》

記述されている文字は、斜めに分析する事が可能である。

例:平の家、大いなる念を悟りて等々

小松宮彰仁親王に関する詳細と解読結果は、下記を御覧下さい。

【丘珠神社と天皇皇后両陛下が利用した札幌飛行場(丘珠空港)】

丘珠神社及び、丘珠空港(札幌飛行場)に関する関連性を明確に指摘できる事柄を挙げる。

丘珠神社には、征露凱旋記念碑(日露戦争の戦勝記念碑)が明治39年に建設(奉納)されている。

丘珠空港に関しては、昭和17年(1942年)に大日本帝国陸軍によって施設された。

即ち、明治天皇北海道行幸の後であり、第二次世界大戦敗戦の前に『軍部によって施設されている』と、いう点で、明確なる相関性を指摘できる事となる。

征露凱旋記念碑については、丘珠村の青年組が奉納している事から、政府及び軍部の関連性を指摘する事はできないが、皇祖神である天照大神のみが祀られている神社である事などから、軍部が対ソの為に丘珠空港をこの地に施設した可能性が極めて高い事となる。

即ち、『験担ぎの為の征露凱旋記念碑と丘珠神社』が浮き彫りとなってくる。

天皇皇后両陛下が北海道へ来たが、利尻島へ向かう際に利用したのが当該空港である。

新千歳空港からも利尻島への便は出ているのだが、わざわざ丘珠空港を利用したのであるから、その意味合いは極めて重い物となるが、この程度では、皇室の正当化はできない事を、宮内庁は理解しているのであろうか?

尚、利尻島の隣にある島は『礼文島』である。

秋篠宮文仁親王が川島紀子と結婚する前、秋篠宮は『礼宮文仁親王(礼文仁)』である事も推して知るべきではないだろうか。

※第125代天皇(平成)の名は〝明仁〟であり、小松宮彰仁親王と同様の名である事にも留意する必要がある。

詳細については、公文書の項目にて記述しているので、そちらを御覧頂きたい。

札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)1

札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)1

札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)2

札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)2

【2-新聞赤旗と平家の戦旗の関連性及び数字に験を担いだ動向の解説】

それでは、ここまでの話を要約し、話を纏めてゆく。

平家の旗は『赤い旗』であり、「明治維新から始まる謀略は、平家の仕業である」という口実の為に、『新聞赤旗が作られた』という事を指摘する事ができる。

また、『三』という数字が多用されるのは、平家の繋がりを示す、『かぐや姫=竹取物語(三寸)』の文献がある『平安後期』に見る事となる。

以上の事を基礎とし、分析して行くと、織田信長の全国統一になぞらえた明治維新遂行と、国内宗教の統一に行き着き、更にこの事は、2・26事件と張作霖爆殺事件と満州事変へと繋がり、第二次世界大戦後の状況に直結する事となる。

それは、戦前に行われた謀略を隠す為の大義名分と、事後処理を目的とし、『意図して作られた〝左派思想〟』が見え隠れする事となるのである。

したがって、1970年代に、国内に於いて発生している公安事案(テロ等)の中には、事後処理の為に作られた事件があるという事が見えてくるのである。

例えば『1975年』の『北海道警察本部爆破事件=本部〝三〟階』や、翌年の1976年『北海道庁爆破テロ』等は、代表される一例とも言えるだろう。

ただし、1976年『北海道庁爆破テロ』に関しては事後処理の為に作られた事件であるのか否かを明確に示す事ができる点を私は現時点では見出せていない。

留意すべき点は、1975年、川嶋庄一郎の遺骨が、和歌山県に分骨された年とも一致する事である。

※北海道警察本部爆破事件:警察本部にて発生した爆発テロ

※2014年、警察施設を狙った事件(私が直接巻き込まれた事件):札幌連続ボンベ爆破事件

※重要:公安警察の自作自演事件日にカルト宗教の日が一致する事実


【後白河天皇と平安後期と平家;「かぐや姫」と「かごめ唄」】

かぐや姫《竹取物語

あらすじ:竹の中から「三寸」の娘が出現する。実はこの娘、やんごとなき家柄の娘であった。後ほど娘を迎えに使者がやって来た時、娘は老夫婦に絹を渡し旅立ってゆく。よって、かぐや姫が描写される際は、絹の衣を纏った姿で描写される事が多い。(3寸=約 9 cm、この物語には「三」という数字が頻出する)

かぐや姫は、平安時代に作成された物語である。後白河天皇が幽閉されていた地域及び平家が逃れたとされる地域に一致する点が多い。尚、絹は穢れを寄せ付けないとされ、大嘗祭でも使用される。

詳細は後程解説する。

倶利伽羅峠の戦い(平家と源氏)

上記画像は、倶利伽羅峠の戦い(平家と源氏)の錦絵である。北海道へ〝蝶〟が飛んで行くとは興味深い資料だと個人的に思う。

【二・二六事件 消された真実 ~陸軍軍法会議秘話~】

226事件の証言動画

〔二二六事件の詳細と、関連項目に関しては、以下のページを御覧下さい〕

2・26事件と宮城事件には明確なる相関性がある。

一切公表されてこなかった二二六事件と宮城事件の真相を、第二次世界大戦中に近衛師団の近衛兵だった祖父がいる私が、動画や映像を分析し解説する。

【3-私の家柄と川嶋家の類似点の解説】

私の家は、近い所(曽祖父)ですと「富山県」と「石川県」が出身である。

倶利伽羅峠の戦い≒(倶利〝娑羅〟峠の戦い)でも有名な地である。

私の母方の曽祖父は『三次朗』という名であり、『満州鉄道』で働いていた。三次郎は名前に「3」が付く為、『満州事変関連のスケープゴート≒平家の赤旗と共産主義の赤旗に関する平家狩り』として目を付けられたと見る事ができる。(三次朗の家族には〝イトコ〟という名もいる)

また、父方の曽祖父と、曾祖母は『丸に剣片喰の家紋』がある為、川嶋家のスケープゴートとして使われたと推測するのが一番腑に落ちる。(川嶋家の家紋:丸に剣片喰)

さらに、父方の曾祖母の遺影は、昭和29年に描かれた肖像画となっているのだが、当該肖像画を描いた画家の名は、流れの画家『錦 舟』である。(肖像画の左下に書かれているが、曾祖母の名前ではない)

したがって、川嶋家では、長男の名前に「舟」と名付けたのではなかろうか。万一、成りすます為であるならば、画家名を名前と間違えたのであろうが、いずれにしても極めて不純な動機である事に変わりはない。

要するに、絵を描いたのは「錦 舟」であるが、「川嶋家」にて「錦 舟」を、名前であると誤認識し、秋篠宮紀子(川嶋紀子:曾祖母)と同様にする為、長男に「舟」と名付けたのではないだろうかとも見る事ができるという事である。

さらに、曽祖父である三次朗の息子、長男(92歳-2015年現在)は、『大日本帝国陸軍中等科』に入学し『測量』を学び、第二次世界大戦中は、『大日本帝国陸軍陸地測量部隊で兵役をこなし』後に「製図:測量会社」を経営し、生計を立てている。

上記の『大日本帝国陸軍陸地測量部隊』は、上述している、川島家の『小菅智淵と同一部隊』となる。

この事から、私の家柄を利用し「平家(平家狩り)」をキーワードとした謀略に巻き込み、異常な裏工作を行っている事を説明する事ができるのだ。

※私の祖母は、『長崎の藩の家紋』と『桐紋』である。

※祖母の家は『成田山』に御縁があり、親戚の集合写真には髷を結った方も居た。

※祖父は、平成の今上天皇(当時、皇太子殿下)に随行した近衛兵(儀仗兵)であり、日光御用邸にも随行していた。

【4-天皇(皇太子)が第二次世界大戦中に疎開先で観た近衛兵達による猿蟹合戦の芝居と相撲大会】

関係者には判る様、一般には一切公開されていない話を記述したい。

平成の今上天皇(当時、皇太子殿下)は、第二次世界大戦末期、栃木県の日光御用邸に疎開していた。

この疎開先にて、私の祖父を含めた儀仗兵と共に、『猿蟹合戦の芝居』を観ている。

『相撲』に関しては、私の祖父などが、平成の今上天皇(当時、皇太子殿下)の前で、相撲を取り、楽しんで頂いた事もあると祖父から直接聞いた事がある。

その他であると、富士山の方に訓練(恐らくは〝名目上〟訓練となっている)で行軍している。

近衛兵に関してであるが、当時の皇太子と共に行軍していたと聞いている。(連隊名は敢えて伏せさせて頂きたい)


※かの有名な宮城事件は、1945年のポツダム宣言受諾を受けて発生したが、私の祖父は宮城事件前に近衛兵の任を解かれ地元に戻ってきた。

したがって、宮城事件画策に巻き込む人員を最小限に抑え、部隊の統率を抑える事ができない様な不測の事態を抑える為の対策である事が窺える。

そもそも、一部隊の一存で、任と解任を決める事はできないであろう事から、この事件に通じる根本的な決定を下したのは、軍部及び政府天皇家である事が見えてくるだろう。

ようするに、当時は明確に皇國であったのだから、頂点に位置する天皇家の戦争責任を逸らす意図があったという事であろうことが見えてくる。

さらにこの宮城事件であるが、似たような事件であるならば、2.26事件が宮城事件より以前に発生している。

この2.26事件もまた、軍部の暴走という事で話されているが、私が今まで記述してきた事から分析するならば、2.26事件の時点で、軍部に責任を集約し、天皇家の保護を画策したと言えるだろう。

また、2.26事件の事柄で軍部の責任に集約してあるので、終戦後に発生する天皇家への責任回避の為に、宮城事件が画策され、実行に移されたと見る事ができる。

上記の事から、2.26事件と宮城事件を起こす事により、戦争責任の所在が軍部のみであるかの様にする為に作られた事件であるのが、2.26事件と宮城事件であるという事が窺えるだろう。

また、当時の近衛兵に任期は無く、通常ならば終戦まで兵役(奥日光御用邸)をこなしていたであろうにも拘らず、一足先に地元に帰って来るという事柄が有る事から、先述した、軍部のみならず、全体が一丸となって作られた2.26事件であるという事を、指摘できる事柄となるだろう。

以上の事から、川嶋家と天皇家の結婚は、戦争責任回避に関連する政略的な結婚であって、それに伴う被害を受けてきている私と私の一族は、デッチ上げに今でも使われていて、現状に至っている事が鮮明となっているのである。

※したがって、天皇陛下が述べられた御言葉、『満州事変に始まる先の大戦をもう一度、学び直し』については、正確には、『張作霖爆殺事件や2・26事件より遡る事,明治維新に始まる先の大戦をもう一度よく学び直し』であるのが本来の御言葉であろう事かと思う。

226事件と天皇家の関係(秋篠宮家と財閥)

【2016年2月26日宮内庁に電話 ~ さすが宮内庁!!素晴らしき電話応対★part1‐5 ~】

宮内庁へ電話した動画

2016年2月26日に、国民には知らされていない歴史を調べた結果が出たので質問の電話をさせて頂きました。

秋篠宮と三笠宮を中心とした歴史になります。

その際の宮内庁の電話応対になります。

初めは普通の応対のようでしたが、徐々に様子が変貌してきます。

日本の機関である宮内庁が、このような応対をするとは驚きです。

2013年2月25日と2015年2月26日にも電話しておりますが、これとほぼ同様の応対をされております。

※重要:仁和寺宮(小松宮彰仁親王-伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(明治維新)

工作対象

上記を御読み下さい。

【近衛兵(儀仗兵)の祖父が話した歴史的事実】

儀仗兵(近衛兵)の祖父

日光御用邸儀仗兵本部にて撮影された近衛兵の写真(祖父)

上述してきた、近衛兵の祖父が日光御用邸にて写っている写真である。ここには、日光御用邸儀仗兵本部が置かれていたそうだ。一見すると、お金が入っていそうな写真右に写っている紙包みの中には、帰還した祖父に贈られた下賜物の『スルメ』『タバコ』『昆布』が入っている。祖父はタバコを吸わない人だったので、タバコはあげたそうである。

※一説によると、『敗戦した場合、GHQの統治下となり、軍人に恩給を下賜する事ができなくなる為、天皇の御厚意により、終戦前に軍役を解除した』との話を一部保守派が広めているが、実態は『スルメ』と『タバコ』と『昆布』である。

丸に剣片喰(家紋)

家紋:『丸に剣片喰』

揚羽蝶(蝶紋)平家の家紋

家紋:『揚羽蝶(平家)』

丸に中が瓜実の片喰(家紋)

家紋:『丸に中が瓜実の片喰』

五七桐(家紋)

家紋:『五七桐』

【時系列順:事象年表】

【明治三年記録 アイヌ語の鳥獣名;アヲタコダンチカウ(ブッポウソウ Eurystomus Orientalis)】

達伊和洸〔明治三年アイヌ語鳥獣名-アヲタコダンチカウ(ブッポウソウ EurystomusOrientalis)〕

※明治三年記録 アイヌ語の鳥獣名;アヲタコダンチカウ(ブッポウソウ: Eurystomus Orientalis)

未発見・未公表のアイヌ語鳥獣名を発見。2020年7月9日、twitterにて発表(@WakouTeda)。

発見者:達伊和洸

【後白河天皇と平安後期と平家;「かぐや姫」と「かごめ唄」】

《かぐや姫《竹取物語

あらすじ:竹の中から三寸の娘が出現する。実はこの娘、やんごとなき家柄の娘であった。後ほど娘を迎えに使者がやって来た時、娘は老夫婦に絹を渡し旅立ってゆく。よって、かぐや姫が描写される際は、絹の衣を纏った姿で描写される事が多い。(3寸=約 9 cm、この物語には「三」という数字が頻出する)

かぐや姫は、平安時代に作成された物語である。後白河天皇が幽閉されていた地域及び平家が逃れたとされる地域に一致する点が多い。尚、絹は穢れを寄せ付けないとされ、大嘗祭でも使用される。


《後白河天皇(法皇):梁塵秘抄

“梁塵秘抄(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に編まれた今様歌謡の集成である。編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)に編纂された。宗教儀式的な、〝まじない(呪い)〟の要素が垣間見える歌の代表作に「舞え舞え蝸牛」がある。

舞え舞え蝸牛「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」”


《日本国歌:君が代》

平安時代に作成されたと推測されている詩の一つに日本国歌の「君が代」がある。国歌君が代には、「千代に八千代に~苔の生すまで」という子孫繁栄の側面が見られる。

推測であるが、後白河法皇の余生に思い入れが強くなるような、壮絶な状況(堕落・嘆き・没落)を見た人物が、君が代の作者であろう事と思う。よって、時代背景をもとに分析すると、君が代には、表と裏が存在する儀式的要素の詩となっていることが見えてくる。

例えば、君が代の表側には式年遷宮や大嘗祭の御列の様相および婚姻に際する朝見儀式の様相が見られる。一方で、裏側には、古来から神の怒りとされて来た天変地異により、雹が降り、岩音のように聞こえている様相も存在する。

『君が代(我が世)は「千代に八千代(鶴と亀)」に「さざれ石(敷石:雹≒ザラメ霰)の巌と(岩音:岩笛)」なりて「苔(公家≒後家:毛)」の「むす(結ぶ≒契る):(生える)」まで』である。

上記を御覧頂くとお分かり頂ける事と思うが、我が君になる願いが込められている事、及び、儀式的要素が入っていることが分かる。

また、君が代と大嘗祭の関係として、大嘗祭では、絹の衣で身を包み、そのまま水に浸かり潔斎をするという一説がある。この一説を基にした推測を記述する。この儀式は、穢れを寄せ付けない絹で身を包むと同時に、水で身を清める行為が一体となったものであろう。すなわち、絹の衣を身に着けたまま水に浸かり、身を清める行為である事が分かる。

また、黄泉の国へ行ったイザナギとイザナミの日本神話からもその儀式の元を見る事ができる事から以下に一連の事柄を記述する。

『死んだイザナミは黄泉の国へ行った。イザナミを追ってイザナギが黄泉の国へ行き、一緒に帰ろうと話をする。するとイザナミはイザナギに「貴方のもとに帰ろうと思います。私が黄泉の国の神と話をして来ますから、その間は、絶対に私が居る所を覗かないで下さい。」と言った。長らく待ったがイザナミが出てこない。そこでイザナギは覗くことにした。暗闇の中、イザナギがそこで見たイザナミは、八雷神に囲まれていたのだった。驚愕したイザナギは逃げ出した。その姿は穢れそのものであったからだ。逃げたイザナギに「見るなと言ったのに!恥をかかされた!」そう言ってイザナミは追いかけた。あの手この手で逃げたイザナギは、黄泉の国の入り口を大岩で塞いでしまった。岩の向こうからイザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言い捨てた。それに対しイザナギは「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。この時、イザナギはイザナミと離婚したのである。この世に戻ったイザナギは、阿波岐原の地の滝壷で禊ぎをした。この禊でイザナギが身に付けていた衣や杖などから神が生まれ、浴びた水からも神が生まれた。』

上記で分かるように、暗闇の中、イザナミが神に囲まれている姿が極めて穢らわしかった。よってイザナギは、その穢れを祓う為に水で禊の儀式を行ったのである。この事を念頭に置き君が代を見ると、〝苔の生す〟という一節が儀式の様相の一部である事が分かる。なぜならば、苔は水場に多く植生しているからである。よって、苔が生すまでという一節が意味する事は、水場の儀式に関係する事が分かるのである。

これら神話を、生物学的かつ客観的に分析すると、相手がいなければ子供は産まれない事が分かる。よって、穢れ無き巫女(処女の皇女)との間で潔斎の禊および儀式を行い、穢れ無き子を作った事が見えてくる。したがって、古来の潔斎儀式には、子孫繁栄に繋がる性的な行為が入っている事が見えてくるのである。

これらの事柄を宗教思想的に分析すると、黄泉の国にてイザナミは複数の神と行為を行っていた事も見えてくるのである。これは、複数の神の能力を持つ、より優れた子を作りたいとの考えが存在している事となるのではなかろうか。

なぜならば、子を作る行為を一対一で行った場合、身ごもる子が取り込める神の能力は1人でしかない。しかしながら、複数の神と同時に子を作る行為を行ったならば、身ごもる子が複数の神の能力を持ち生まれると考えることができるからである。

当時は現代医学のように科学的な事は分からない時代であるので、特定の宗教思想に、これら考え方が入る事は至極当然とも言えるのである。よって、黄泉の国の神々の常識として、上述した宗教思想が垣間見える事となるのである。

ただし、宗教思想がその他の国によっても同一とは言えない。なぜならば、イザナギとイザナミが元来居た国においては、複数が同時に子作りに参加する事は、いかようにしても祓う事ができない穢れとして考えられていた事がイザナギの行動や腐敗した死体としての描写により分かるのである。

尚、後白河法皇は伯家神道にも影響を与えている真言密教立川流というインド密教である尸林(しりん)という遺体を置く地で発祥した密教の流れを汲む日本の密教に熱心であったという事である。

当該立川流は、その密教内の儀式には性的行為を伴うものがある。夜間尸林で集会し、肉を食い、飲酒し、奏楽乱舞し、性的放縦を伴う狂宴を行うものである。これらはダーキニーと言われる。

それらを裏付ける事ができる事柄に、後白河法皇が宮中遊びに熱心であった事や、歴代天皇の中でも後醍醐天皇に次ぎ特に子が多いことがある。また、後白河法皇の息子と娘もまた、夜な夜な宮中遊びに熱心であったとの事である。その堕落した宮中生活には後白河法皇でさえも懸念を抱いていたという。

以上の事から、平安時代に作成されたと推測されている君が代には、平安時代に失脚させられ幽閉されてしまった後白河法皇との関係が深い側面が見えてくるのである。

尚、本物の伯家神道は、明治期に、欧米文化では一切受け入れられない内容とされ、宮内省より他言無用かつ一切非公表とされてきている経緯があるが、現代でもこれら儀式が継続して行われているかは実質不明である事は述べておきたい。

決して蔑める目的で私はこれら分析結果を公表している訳ではなく、子孫繁栄・性的行為・宗教儀式は切り離す事ができない存在である事からも、君が代が作成された時代背景や神話からこれらが浮かび上がるという事を客観的に記述している。このまま読み進めて頂くと、お分かり頂ける事と思う。

それでは、以下に、類似する有名な日本の宗教儀式的事柄を記述してゆく。

《かごめ唄童謡-本居宣長-冷泉院流の伯家神道と今様と後白河天皇

梁塵秘抄の舞え舞え蝸牛同様、こちらも、宗教儀式的要素が強い。籠目模様は魔を除けるとされ、古来より魔除けとして用いられる事が多いのも特徴の一つである。その上、「鍋の底を貫く行為(穢れが無い処女)」と「ツルツル入る行為(性的行為)」、及び「そこに入れてたもれ(性的行為)」から分かるように、この唄と遊びには、「宗教的性儀式」の要素が強い事が分かる。鶴と亀と仮定し見ても、子孫繁栄の性的儀式である事が分かる。また、〝かごで迎えに来られる高貴な女性≒籠女〟とも見る事ができる。

“かごめかごめは、こどもの遊びの一つである。または、その時に歌う歌となる。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」ともいう。「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似た遊びとされる。

鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。

地方により歌詞が異なる。

なお、文献では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。”


“「竹堂随筆」

竹堂随筆(ちくどうずいしゅう):文政3年(1820年)頃に編纂。浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、宝暦・明和年間(1751年 - 1772年)頃に収録された童謡集。

「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。つるつるつっぺぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」”


“「戻橋背御摂」

戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき):文化10年(1813年)、江戸市村座で初演された歌舞伎芝居、鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄。戻橋背御摂に関しては大南北全集(春陽堂)、鶴屋南北全集(三一書房)などで確認できる。

「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集)

「かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた」(鶴屋南北全集)”


“「月花茲友鳥」

月花茲友鳥(つきとはなここにともどり):文政6年(1823年)、市村座で初演された浄瑠璃。清元全集(日本音曲全集刊行會)、日本歌謡集成(春秋社)などで確認できる。

「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」”


“「幼稚遊昔雛形」

幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた):天保15年(1844年)に刊行された万亭応賀編の童謡童遊集。

「かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる よあけのまえに つるつるつッペッた なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ」”


【北海道の方言(北海道弁)】

※北海道特有の方言(北海道弁)には、『すんばれる(しばれる)』という言葉がある。この言葉は、凍て付くほど寒い時、その寒さを表現する際に用いる言葉である。通常の文字表記では「しばれる」が多用されるが、正確な発音を文字表記すると「すんばれる」となる。ただし、蝦夷地の特定地域(入植者分布)によっては、〝すんばれる〟と発音しない地域が相当数ある事から、現代では個人差が生じる発音である。

《使用例:お前、こんな気温が低い日に、屋外にほっぽられたら〝すんばれて〟しまうぞ!!(ホッポ~は、投げるor捨てるを意味する。)》

《具体例:お前、そんな話して誰かに聞かれたら寸バレテ 北方られてしまうぞ!!》

その他、北海道弁には『つっぺ』という言葉がある。この言葉は、穴に何かを詰める行為を表現する際に用いられる。

《使用例:鼻血が出てきたからティッシュペーパーを〝つっぺ〟した。》

《具体例:籠女の儀式では鍋の底を貫いてツッペする。》

如何だろうか?温暖な土地から北方へ追いやられたら、馴れない寒さで寸バレてしまうのではなかろうか?

他にも多数の北海道弁があるので、後ほど追記してゆこうと思う。