皇室と北海道を繋ぐ明治天皇と秋篠宮紀子さま入内の意味|謀略に関係する明確な現皇族の動き
【1-秋篠宮紀子様の家柄と満州及び軍部の関係性|満州事変と張作霖爆殺事件の背景】
此処で一つ、大変恐縮ながら調べてみたのですが、川嶋さん(秋篠宮紀子殿下の実家)の御先祖様ですが、池上さん等、警察官僚も多い御家系のようです。
戊辰戦争に絡み、更には満州事変に絡んでいる決定的な事柄を指摘する事ができます。
(戦後の歴史捏造・自己正当化の策謀に関しても。)
まず第一に、川嶋さん(秋篠宮紀子殿下)の御家系は、特別高等警察含む警察官僚の御家系であり、秋篠宮紀子殿下の親族を辿ると、『大日本帝国陸軍陸地測量部隊』に携わると共に、マルクス思想や自由主義といった思想に関する調査研究をされていた方も居るようです。
※小菅智淵
※池上四郎
※杉本嘉助・服部俊太郎(南満州鉄道)
満州事変の『三年前』にあたる『1928年』に、『新聞赤旗』が発行されました。
この『1928年』に、『張作霖爆殺事件』が発生します。
それから『三年後』の『1931年』に、満州事変が勃発します。
この時、一説によると、満州鉄道の調査部員に、人員不足から自由主義やマルクス主義の者が居たとの説がありますが、調査部という重要な部署に、思想絡みの人員を配置する程の危険を冒す必要性は見当たりません。
人員の調達に際し、それ相応の身辺調査も行われるのが部署の特性上、最低限行われていると思われます。
(鉄道は国家にとって重要なインフラである為)
この際に、最低限の調査すら無いのであれば、それは何の為であるのか、意図して共産思想の方やマルクス思想の方を入れたのか、その様な意図が働いていた場合には、どの様な意味合いがあり、取り込んだのか、裏を疑わなくてはならない事柄となると思われます。
※満鉄調査部:南満州鉄道内の調査機関
※画像:『張作霖爆殺事件』
【時代背景に関連する明治天皇及び北海道の地名に関する裏の意味】
先述の事柄は、1928年から年代を遡る事、110年前と、346年前に繋がります。
346年前、織田信長が平家を名乗り、全国統一の大義名分を手にした事柄や、『平家の旗』は『赤い旗』である事などが挙げられるかと思われます。
次いで110年前、『伊能忠敬(商者)と測量』であり、平家に関連する「祇園精舎の~=擬音商者」と「測量部隊」とが繋がる事になります。
織田信長にて「縁起を担ぎ」、伊能忠敬で「平家流れの商者(諜報)」と「国土拡大の為の測量部隊」とを掛け、明治維新で北海道開拓、後の満蒙開拓に繋げると同時に、謀略によって不利益が生じた際には、責任集約の為、平家の仕業であるとの保険を掛けていた事が見えてきます。
また、先に述べさせて頂きました、時代の流れをなぞりますと、『明治維新』から、神仏分離令と、神社合祇令、満蒙開拓と『北海道開拓』、第二次世界大戦の疎開先としての満州、引き上げ後の札幌移住と北海道移住に繋がってくる事が見えてきます。
明治維新と北海道開拓に関して、『重要なキーワード』となってくる事は、
『明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)』
『札幌丘珠神社(天照大神のみを祀る神社)』
『篠路神社(伊勢両宮の二柱・崇徳天皇・菅原道真・山口金刀比羅宮など)』
『現在の〝三笠市〟(農地開拓と炭鉱・三重県からの入植者と富良野:中国との姉妹都市提携)』
上記の土地と神社が、明治維新と謀略に繋がる鍵であり、北海道という重要な土地に対する関連付けと裏の意味合い、言い逃れの為の保険となります。
それでは、どうのような保険が掛けられているのか、裏の意味と、土地にまつわる縁起担ぎについて説明してゆきたい。 まずは、『明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)』について。
北海道(蝦夷地)はアイヌが住んでいる土地でもある事。
丘珠という地名は、アイヌ語で〝オッカイ・タム・チャラパ(アイヌ語で男が刀を落とした場所)〟を、地名語源とするという〝説〟がある事。
※札幌丘珠羆事件:明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)
明治天皇は、無類の日本刀好きであった事などから、この地名に対する裏の意味合いが見えてくる事となる。
それは、日本刀と武士に関して言える事であり、戦の道具としてではなく、武士の魂とも言われる程、武士が持つ日本刀に対する心を表しているものであるという点からである。
したがって、〝丘珠〟という地名には、『武士の魂である日本刀を落としてしまった所』という意味合いが見えてくる事になる。
それでは何故、私が「丘珠という地名は、アイヌ語で〝オッカイ・タム・チャラパ(アイヌ語で男が刀を落とした場所)〟を、地名語源とするという〝説〟がある」というふうに『説』としたのか。
これには、〝北海道弁〟が関連している。
北海道弁で『おっかい(オッカイ)』と言うと、『怖い』という意味になるからである。
ようするに、アイヌ語で〝オッカイ・タム・チャラパ〟とは、アイヌ語が北海道弁に影響を与えていると仮定した際に、『オッカイ・タム・チャラパ=怖い土地』という意味になるからである。
※その他にも、アイヌ語と照合すると見えてくる仮説もある。
『オッ・カムイ・タプ・チャ・ラパ=神が居て(カムイ)、切り刻まれて(タプ)、食べられる(チャ)、場所(ラパ)』
したがって、この仮定が正しいならば、丘珠という地名の由来に関して、『明治政府にとって都合の良い解釈をした』という事が浮上してくるのである。
では、どの様に都合の良い解釈がなされているというのか。
それは、『明治天皇は謀略を嘆いていた』したがって、『武士の魂である刀を落としたのである』
『したがって天皇に謀略の責任は無い』という、責任回避の為に付けられた地名という事になるだろう。
※明治天皇:明治天皇(詳細情報)
【仁和寺宮の蝦夷地開拓に関する公文書】
仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達
簿冊標題:公文録・明治元年・第四十五巻・丁卯十二月~戊辰十二月・皇族伺
《掲載している公文書について》
記述されている文字は、斜めに分析する事が可能である。
小松宮彰仁親王に関する詳細と解読結果は、下記を御覧下さい。
【丘珠神社と天皇皇后両陛下が利用した札幌飛行場(丘珠空港)】
丘珠神社及び、丘珠空港(札幌飛行場)に関する関連性を明確に指摘できる事柄を挙げる。
丘珠神社には、征露凱旋記念碑(日露戦争の戦勝記念碑)が明治39年に建設(奉納)されている。
丘珠空港に関しては、昭和17年(1942年)に大日本帝国陸軍によって施設された。
即ち、明治天皇北海道行幸の後であり、第二次世界大戦敗戦の前に『軍部によって施設されている』と、いう点で、明確なる相関性を指摘できる事となる。
征露凱旋記念碑については、丘珠村の青年組が奉納している事から、政府及び軍部の関連性を指摘する事はできないが、皇祖神である天照大神のみが祀られている神社である事などから、軍部が対ソの為に丘珠空港をこの地に施設した可能性が極めて高い事となる。
即ち、『験担ぎの為の征露凱旋記念碑と丘珠神社』が浮き彫りとなってくる。
天皇皇后両陛下が北海道へ来たが、利尻島へ向かう際に利用したのが当該空港である。
新千歳空港からも利尻島への便は出ているのだが、わざわざ丘珠空港を利用したのであるから、その意味合いは極めて重い物となるが、この程度では、皇室の正当化はできない事を、宮内庁は理解しているのであろうか?
尚、利尻島の隣にある島は『礼文島』である。
秋篠宮文仁親王が川島紀子と結婚する前、秋篠宮は『礼宮文仁親王(礼文仁)』である事も推して知るべきではないだろうか。
※第125代天皇(平成)の名は〝明仁〟であり、小松宮彰仁親王と同様の名である事にも留意する必要がある。
詳細については、公文書の項目にて記述しているので、そちらを御覧頂きたい。
札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)1
札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)2
【2-新聞赤旗と平家の戦旗の関連性及び数字に験を担いだ動向の解説】
それでは、ここまでの話を要約し、話を纏めてゆく。
平家の旗は『赤い旗』であり、「明治維新から始まる謀略は、平家の仕業である」という口実の為に、『新聞赤旗が作られた』という事を指摘する事ができる。
また、『三』という数字が多用されるのは、平家の繋がりを示す、『かぐや姫=竹取物語』の文献がある『平安後期』に見る事となる。
以上の事を基礎とし、分析して行くと、織田信長の全国統一になぞらえた明治維新遂行と、国内宗教の統一に行き着き、更にこの事は、2・26事件と張作霖爆殺事件と満州事変へと繋がり、第二次世界大戦後の状況に直結する事となる。
それは、戦前に行われた謀略を隠す為の大義名分と、事後処理を目的とし、『意図して作られた〝左派思想〟』が見え隠れする事となるのである。
したがって、1970年代に、国内に於いて発生している公安事案(テロ等)の中には、事後処理の為に作られた事件があるという事が見えてくるのである。
例えば『1975年』の『北海道警察本部爆破事件=本部〝三〟階』や、翌年の1976年『北海道庁爆破テロ』等は、代表される一例とも言えるだろう。
※1976年『北海道庁爆破テロ』に関しては事後処理の為に作られた事件であるのか否かを明確に示す事ができる点を私は現時点では見出せていない。
※1975年は、川嶋庄一郎さんのご遺骨が、和歌山県に分骨された年とも一致します。
※北海道警察本部爆破事件:警察本部にて発生した爆発テロ
【後白河天皇と平安後期と平家;「かぐや姫」と「かごめ唄」】
《かぐや姫:かぐや姫(物語の詳細)》
《竹取物語:物語の詳細》
あらすじ:竹の中から三寸の娘が出現する。実はこの娘、やんごとなき家柄の娘であった。後ほど娘を迎えに使者がやって来た時、娘は老夫婦に絹を渡し旅立ってゆく。(3寸=約 9 cm、この物語には「三」という数字が頻出する)
平安時代に作成された物語である。後白河天皇が幽閉されていた地域及び平家が逃れたとされる地域に一致する点が多い。尚、絹は大嘗祭でも使用される。
《かごめ唄:かごめ歌(童謡-本居宣長-冷泉院流の伯家神道)と今様と後白河天皇》
“「竹堂随筆」
竹堂随筆(ちくどうずいしゅう):文政3年(1820年)頃に編纂。浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、宝暦・明和年間(1751年 - 1772年)頃に収録された童謡集。
「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。つるつるつっぺぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」”
“「戻橋背御摂」
戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき):文化10年(1813年)、江戸市村座で初演された歌舞伎芝居、鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄。戻橋背御摂に関しては大南北全集(春陽堂)、鶴屋南北全集(三一書房)などで確認できる。
「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集)
「かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた」(鶴屋南北全集)”
“「月花茲友鳥」
月花茲友鳥(つきとはなここにともどり):文政6年(1823年)、市村座で初演された浄瑠璃。清元全集(日本音曲全集刊行會)、日本歌謡集成(春秋社)などで確認できる。
「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」”
“「幼稚遊昔雛形」
幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた):天保15年(1844年)に刊行された万亭応賀編の童謡童遊集。
「かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる よあけのまえに つるつるつッペッた なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ」”
【北海道の方言(北海道弁)】
※北海道特有の方言(北海道弁)には、『すんばれる(しばれる)』という言葉がある。この言葉は、凍て付くほど寒い時、その寒さを表現する際に用いる言葉である。通常の文字表記では「しばれる」が多用されるが、正確な発音を文字表記すると「すんばれる」となる。ただし、蝦夷地の特定地域(入植者分布)によっては、〝すんばれる〟と発音しない地域が相当数ある事から、現代では個人差が生じる発音である。
《使用例:お前、こんな気温が低い日に、屋外にほっぽられたら〝すんばれて〟しまうぞ!!(ホッポ~は、投げるor捨てるを意味する。)》
その他、北海道弁には『つっぺ』という言葉がある。この言葉は、穴に何かを詰める行為を表現する際に用いられる。
《使用例:鼻血が出てきたからティッシュペーパーを〝つっぺ〟した。》
如何だろうか?温暖な土地から北方へ追いやられたら、馴れない寒さで寸バレてしまうのではなかろうか?
他にも多数の北海道弁があるので、後ほど追記してゆこうと思う。
上記画像は、倶利伽羅峠の戦い(平家と源氏)の錦絵である。北海道へ〝蝶〟が飛んで行くとは面白い資料だと個人的に思う。
【二・二六事件 消された真実 ~陸軍軍法会議秘話~】
〔二二六事件の詳細と、関連項目に関しては、以下のページを御覧下さい〕
2・26事件と宮城事件には明確なる相関性がある。
一切公表されてこなかった二二六事件と宮城事件の真相を、第二次世界大戦中に近衛師団の近衛兵だった祖父がいる私が、動画や映像を分析し暴露する!!
【3-私の家柄と川嶋家の類似点の解説】
私の家は、近い所(曽祖父)ですと「富山県」と「石川県」が出身です。
(倶利伽羅峠の戦い≒(倶利〝娑羅〟峠の戦い)
私の母方の曽祖父は『三次朗』という名であり、『満州鉄道』で働いておりました。
また、三次郎は名前に「3」が付く為、『満州事変のスケープゴート』として使われたと見る事ができます。(三次朗の家族には〝イトコ〟という名もいる)
父方の曽祖父と、曾祖母は『丸に剣片喰の家紋』がある為、川嶋家のスケープゴートとして使われたと推測するのが一番腑に落ちます。
(川嶋家の家紋:丸に剣片喰)
また、父方の曾祖母の遺影は、昭和29年に描かれた肖像画となっておりますが、この肖像画を描いた画家の名は、流れの画家『錦 舟』であります。
(肖像画の左下に書かれているが、曾祖母の名前ではない)
したがって、この謀略を指摘する為に、何者かが残した痕跡であり、現状を指し示す為であるのか、成りすます為であるのか、川嶋家では、ご長男の名前に「舟」と名付けたのではないかと思われます。
(万一、成りすます為であるならば、肖像画の画家名を名前と間違えたのであろうか)
要するに、絵を描いたのは「錦 舟」であるが、「川嶋家」にて「錦 舟」を、名前であると誤認識し、秋篠宮紀子殿下(川嶋紀子:曾祖母)と同様にする為、ご長男に「舟」と名付けたのではないだろうかとも見る事ができます。
さらに、私の祖父の兄弟であり、曽祖父である三次朗の息子である、長男(92歳)は、『大日本帝国陸軍中等科』に入学し『測量』を学び、第二次世界大戦中は、『大日本帝国陸軍陸地測量部隊で兵役をこなし』後に「製図;測量会社」を経営し、生計を立てております。
上記の、『大日本帝国陸軍陸地測量部隊』は、上述している小菅智淵(池上四郎)関係と同一部隊となります。
この事から、私の家柄を利用し、平家をキーワードとした謀略に巻き込み、責任の擦り付けと責任の集約を行っている事を説明する事ができます。
この事により、戦前から現在にかけての『スケープゴート』と『一族潰し』が行われているという事を明確に指摘する事ができます。
※私の祖母は、『長崎の藩の家紋』と『桐紋』です。
※祖母の家は『成田山』に御縁があり、親戚の集合写真には髷を結った方も居ります。
※祖父は、今上天皇(当時;皇太子殿下)に随行した儀仗兵(近衛兵)であり、日光御用邸にも随行しております。
【4-天皇(皇太子)が第二次世界大戦中に疎開先で観た近衛兵達による猿蟹合戦の芝居と相撲大会】
関係者には判る様、一般には一切公開されていない話を記述したい。
今上天皇(当時、皇太子殿下)は、第二次世界大戦末期、栃木県の日光御用邸に疎開していた。
この疎開先にて、私の祖父を含めた儀仗兵と共に、『猿蟹合戦の芝居』を観ている。
『相撲』に関しては、私の祖父などが、今上天皇(当時、皇太子殿下)の前で、相撲を取り、楽しんで頂いた事もあると祖父から直接聞いた事がある。
その他であると、富士山の方に訓練(恐らくは〝名目上〟訓練となっている)で行軍している。
儀仗兵に関してであるが、皇太子殿下と共に行軍していたと聞いている。(連隊名は敢えて伏せさせて頂きたい)
※かの有名な宮城事件は、1945年のポツダム宣言受諾を受けて発生したが、私の祖父は1944年に近衛兵の任を満了し、地元に戻ってきた。
したがって、宮城事件画策に巻き込む人員を最小限に抑え、部隊の統率を抑える事ができない様な不測の事態を抑える為の対策である事が窺える。
そもそも、一部隊の一存で、任と解任を決める事はできないであろう事から、この事件に通じる根本的な決定を下したのは、軍部及び政府天皇家である事が見えてくるだろう。
ようするに、当時は明確に皇國であったのだから、頂点に位置する天皇家の戦争責任を逸らす意図があったという事であろうことが見えてくる。
さらにこの宮城事件であるが、似たような事件であるならば、2.26事件が宮城事件より以前に発生している。
この2.26事件もまた、軍部の暴走という事で話されているが、私が今まで記述してきた事から分析するならば、
2.26事件の時点で、軍部に責任を集約し、天皇家の保護を画策したと言えるだろう。
また、2.26事件の事柄で軍部の責任に集約してあるので、終戦後に発生する天皇家への責任回避の為に、宮城事件が画策され、実行に移されたと見る事ができる。
上記の事から、2.26事件と宮城事件を起こす事により、戦争責任の所在が軍部のみであるかの様にする為に作られた事件であるのが、2.26事件と宮城事件であるという事が窺えるだろう。
また、当時の近衛兵に任期は無く、通常ならば終戦まで兵役(奥日光御用邸)をこなしていたであろうにも拘らず、
一足先に地元に帰って来るという事柄が有る事から、先述した、軍部のみならず、全体が一丸となって作られた2.26事件であるという事を、指摘できる事柄となるだろう。
以上の事から、川嶋家と天皇家の結婚は、戦争責任回避に関連する政略的な結婚であって、それに伴う被害を受けてきている私と私の一族は、デッチ上げに今でも使われていて、現状に至っている事が鮮明となっているのである。
※したがって、天皇陛下が述べられた御言葉、『満州事変に始まる先の大戦をもう一度、学び直し』については、
正確には、『張作霖爆殺事件や2・26事件より遡る事,明治維新に始まる先の大戦をもう一度よく学び直し』であるのが本来の御言葉であろう事かと思う。
【2016年2月26日宮内庁に電話 ~ さすが宮内庁!!素晴らしき電話応対★part1‐5 ~】
2016年2月26日に、国民には知らされていない歴史を調べた結果が出たので質問の電話をさせて頂きました。
秋篠宮様と三笠宮様を中心とした歴史になります。
その際の宮内庁の電話応対になります。
初めは普通の応対のようでしたが、徐々に様子が変貌してきます。
日本の機関である宮内庁が、このような応対をするとは驚きです。
2013年2月25日と2015年2月26日にも電話しておりますが、これとほぼ同様の応対をされております。
※重要:仁和寺宮(小松宮彰仁親王-伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(明治維新)
※工作対象が〝実態を知る者〟である事と、女性皇族が男遊びをしている証明。
上記を御読み下さい。
【近衛兵(儀仗兵)の祖父が話した歴史的事実】
日光御用邸儀仗兵本部にて撮影された近衛兵の写真(祖父)
上述させて頂いた、近衛兵(儀仗兵)の祖父が日光御用邸にて写っている写真である。ここには、日光御用邸儀仗兵本部が置かれていたそうだ。一見すると、お金が入っていそうな写真右に写っている紙包みの中には、下賜物の『スルメ』と『タバコ』と『昆布』が入っている。祖父はタバコを吸わない人だったので、タバコはあげたそうである。
※一説によると、『敗戦した場合、GHQの統治下となり、軍人に恩給を下賜する事ができなくなる為、天皇の御厚意により、終戦前に軍役を解除した』との話があるが、実態は『スルメ』と『タバコ』と『昆布』である。
写真の拡大画像:儀仗兵(近衛兵)の祖父
家紋:『丸に剣片喰』
家紋:『揚羽蝶(平家)』
家紋:『丸に中が瓜実の片喰』
家紋:『五七桐』
【明治三年記録 アイヌ語の鳥獣名;アヲタコダンチカウ(ブッポウソウ Eurystomus Orientalis)】
※明治三年記録 アイヌ語の鳥獣名;アヲタコダンチカウ(ブッポウソウ Eurystomus Orientalis)
未発見・未公表のアイヌ語鳥獣名を発見。2020年7月9日、twitterにて発表(@WakouTeda)。発見者:達伊和洸