明治維新と北海道(蝦夷)開拓の目的に関する公文書と第二次世界大戦に発展させた重要人物を公表。旧宮家の小松宮彰仁親王(仁和寺宮=伏見宮)が伝達した暗号公文書と開拓史日誌の解読結果を公開する。

小松宮彰仁親王(仁和寺宮嘉彰)が残した公文書及び開拓使日誌の解読で判明した『北海道開拓の指揮を執った理由』

【公文書を解析-軍人皇族の仁和寺宮と蝦夷地開拓に関して】

以下に、策謀と明確なる相関性を指摘する事ができる資料の写真と共に、その詳細を記述してゆく。

仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(小松宮彰仁親王)

仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達

簿冊標題:公文録・明治元年・第四十五巻・丁卯十二月~戊辰十二月・皇族伺

仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達

簿冊標題:公文録・明治元年・第四十五巻・丁卯十二月~戊辰十二月・皇族伺

《掲載している公文書について》

※記述されている文字は、斜めに分析する事が可能である。

[例]:『したがいまして、北海道開発および、ご採用の、ご決意において、早速行き届けるように、見込みの趣旨を建て、決定し、ご採用させて頂きます。 北海道は、皇国のゆえ、「彼嶋五部」を中任して下さるよう、懇願させて頂きます。』

※その他にも、斜めに解読する事が可能である。

『行商人、届候』『軍艦使い金行き届け候、策』『平の家、大いなる念を悟りて』『今任務、易きなりて此れ嘉彰へ被委任候なり』…等々

やはり、これだけ長い文脈の文書でありながらも、一行あたりの文字数制限もある。よって、確率論から考察すると、偶然この様な記述になっているとは思えない。よって、事の趣旨を、暗号化し、伝達している文書である事が判る。

【仁和寺宮が残した公文書(明治元年)と開拓使日誌(明治2年)の符合点】

それでは、仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)が如何なる暗号文書となっているのか、その詳細を以下に記述してゆく。

まず、北海道開拓に関して残されている『開拓使日誌(明治二年)』との符合点を明示する。

先述した暗号の解析にて提示した『彼嶋五部』との記述に関しては、下記の内容である。

『したがいまして、北海道開発および、ご採用の、ご決意において、早速行き届けるように、見込みの趣旨を建て、決定し、ご採用させて頂きます。 北海道は、皇国のゆえ、「彼嶋五部」を中任して下さるよう、懇願させて頂きます。』

上述した「カシマ」という名字を持つ日本人の割合は、そう多くない。

まして、蝦夷地の開拓という事柄に関し、要職に赴任している人物の割合から考察すると尚の事であろう。

したがって、仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の時点で「彼嶋五部」を任命した人物は誰であり、また、『どのような目的を以ってしての任命であるのか』について明確に指摘できる事となる。

よって、私が解説している暗号文としての意味合いに符合する古文書を以下に提示する。

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,31

開拓使日誌;明治二年八月、水戸藩『鹿島 又四郎』

上記の古文書は、仁和寺宮の公文書の翌年である、〝明治二年〟に記述された『開拓使日誌』である。

明治二年八月、水戸藩『鹿島 又四郎』との記述がある。

したがって、上記の『開拓使日誌』により、「カシマ」とは誰の事であるのかを、指摘する事ができるようになるが、

この文面のみでは、明確なる符合とまでは言い難い。

よって、暗号文書との符合点を明確に指摘してゆく為に、更なる符合点を、以下に提示する。

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,84

開拓使日誌;会計官判事『島 五位』

上記の古文書も、先の古文書と同じ、『開拓使日誌』である。

会計官判事『島 五位』との記述がある。

即ち、暗号としての記述であると私が指摘している、『彼嶋五部』に関し、「彼、島五位」及び、「鹿島」を任命するよう、仁和寺宮(小松宮)は文章を作成していた事となる。 これらを明確に結び付る事ができる文面は、同じく『開拓使日誌』に残されているので、以下に提示する。

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,90

開拓使日誌;明治二年、任開拓使次官『清水谷 従三位』

上記、古文書の文面に於いて、任開拓使次官『清水谷 従三位』との記述がある。

したがって、仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の一行目に、『清水谷侍従』と記述されている事から、仁和寺宮が明治元年の時点に於いて、〝蝦夷地開拓に関する任命を明治天皇へ暗号を用いて要請〟し、それらが明治天皇に認められた結果として、明治二年の『開拓使日誌』に記述された事となるのである。

さらに、『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)』には、〝金策〟に関する記述も存在している。

先に提示した画像に、『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)』も写っているが、こちらを御覧頂くと、私がマークした部位を見る事ができるかと思う。(画像クリックで拡大)

マークした部位の文面を並べると判読できるのであるが、『軍使金行届候(金策)艦』とある。

即ち、会計官判事である「島 五位」と「清水谷 侍従」が担った役割についても説明が付く事となるのである。

以上の事柄から、『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の暗号文書』に関し、明確なる提示ができる事となる。


【開拓使日誌(明治二年)に記述されている『山丹満州』と『魯西亜(ロシア)』に関して】

先に記述した、『開拓使日誌』に記述されている文面の始まりは、以下である。

「明治二年 五月二十一日:蝦夷地の儀は、皇国の北門、直に山丹満州に接し」

上記の記述から始まる。

即ち、明治政府が如何なる点に重きを置き、蝦夷地の開拓に邁進していたのかを、理解する事が出来得る文面であろう。

結果論となるが、日本が満州を植民地化し、満州事変の後、満蒙開拓による農民の移住を、三十万人まで達せさせるに至った端緒及び思慮は、『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の暗号文書』及び、『開拓使日誌』によって説明が付くであろう。

上述した事柄と結果論のみでは、満州への侵攻に関し、明確なる相関性を有している文面である事が判りづらいであろう事から、以下の項目にて、明確なる相関性と結果論から導き出される事柄を記述してゆく。

開拓使日誌(北海道開拓史料 蝦夷地)No.03

開拓使日誌;明治二年、山丹満州に関する記述(1ページ目)

〔1‐地政学的側面から読み解く「北海道」及び「樺太」と「満州」〕

明治元年、仁和寺宮が明治天皇へ暗号文書を提出し採択された。

翌、明治二年、蝦夷地の開拓が明治政府によって本格的に行われる事となる。

この際、『開拓使日誌』の冒頭にて記述されている、『山丹満州』の行に於いて、

「蝦夷地の儀は、皇国の北門、直に山丹満州に接し、境界祖定といえども、北部に至っては、中外雑居致し、これまで官使がアイヌ(土人)を使役する事、苛酷を極め、外国人はもっぱら愛血を施している事により、アイヌ(土人)は常々、我々邦人を怨離し、外国人を尊信するに至っている。一旦、アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし、アイヌ(土人)を煽動する者が居れば、その時は、その災いが、たちまち函館松前にまで及ぶ事は必然にて、災いを未然に防ぐには、各方々が、今の要務に就いている間に函館平定の際は、速やかに開拓の教導などの方法を施設し、人民繁殖の域とするが為には、利害得失の各意見は忌み憚り無しとする事を申し出でます。」

上記の内容が記述されている。

まず、着目すべきは、文章の冒頭に、何の脈略も無く「山丹満州」が出てくる事である。

したがって、「山丹満州」に関し、脈略と成り得るのは、文章の最後に記述されている「人民繁殖の地」であろう。

ようするに、結果論でいう所の、「満州の植民地化」に至るのである。

さらに、着目すべきは、「外国人」という記述であろう。

アイヌに関しては、土人との記述がある事から、ここで指す「外国人」とは、ロシア人で間違いないと見る事ができる。

開拓使日誌(北海道 蝦夷地開拓史料)No.04

開拓使日誌;明治二年、土人を煽動する者に関する記述(2ページ目)

〔2‐開拓使日誌に記述されているロシア人とアイヌの関係〕

それでは、「外国人(ロシア人)」に関し、どのような記述が『開拓使日誌』に残されているのかを、以下で解説してゆく。

「明治二年 九月:《一》北海道は、皇国の北門、最要衝地帯の地なり(中略)

《一》樺太はロシア人と雑居の地に付き、もっぱら体節を主とし、条理を儘し、軽率な振る舞い、曲がった振る舞いを我々にとる事があり、自然と暴虐非義を加える事があっても、一人一巳の挙動は慎み、必ず全府決議の上で、是非曲がりを正し (以降省略)」

上記の記述がある。

したがって、蝦夷地の開拓を始める以前から、樺太(サハリン)に於いて、「アイヌ」と「外国人(ロシア人)」が生活していた様子が判る。

即ち、「アイヌ」と「外国人(ロシア人)」が混在していた樺太に、明治政府が蝦夷地の開拓として入植し、北海道とした経緯が判る文章となっている。

では、『地政学的側面』から、「満州」と「樺太」を皇国(日本の領土)とする必要性は何処に有るのだろうか、という話になるのであるが、これに関しても結果論から導き出す事ができるので、下記の〔3〕で記述してゆく。

開拓使日誌(北海道 蝦夷地開拓史料)No.05

開拓使日誌;明治二年九月に記述されているロシア人との関係

〔3‐満州と樺太を皇国にする目的と「地政学的要衝地」の意味〕

満州事変の翌年である1932年、満蒙開拓が始まった。

満州事変は、関東軍(日本軍)の自作自演によって行われた事案であった事は、日本政府も公式に認めている。

上述した満州事変を切っ掛けとし、満蒙開拓が始まったのであるが、満州事変で判るように、満州には鉄道網が敷かれていた。

当時の、物資及び人員の移送手段は、船舶ないし鉄道である。

したがって、日本という島国が、欧州圏への覇権と領土を拡大する為に必要な『地政学的戦術』は、

海に面した大陸側を日本領土とする事により、十分な物資及び人員を大陸で移送する事ができるようにする必要が出てくる。

ようするに、満州と樺太以外の、蝦夷地を取り囲んでいる大陸側全てを日本が領土化し、鉄道網を敷く為には、

満州と樺太を先に領土化している必要性が出てくる。

したがって、欧州圏への覇権、及び領土を拡大する為に必要となってくる中間点であり、

尚且つ、『開拓使日誌』に関して〔2〕で解説した「要衝地」となるのは『蝦夷地』であるのだから、

「満州」と「樺太」という二地点を、何としても皇国(日本の領土)とする必要が有ったという事である。

さらに、上述した「要衝地」である蝦夷地は、満州と樺太の両陣からソ連を含めた欧州圏へ本格的に侵攻した際に受けるであろう、〝本州への攻撃を緩衝する為の土地〟としての意味合いも深い事が判る。

したがって、明治二年の『開拓使日誌』に記述されている「要衝地」の意味合いが鮮明化するうえに、

明治元年の『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の暗号文書』の時点で、戦略的な謀が存在している事が判明するのである。

また、余談であるが、〔1〕にて記述した、

「一旦、アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし、アイヌ(土人)を煽動する者が居れば、その時は、その禍恨が函館松前にまで及ぶ事は必然にて、災いを未然に防ぐには、各方々が、今の要務に就いている間に函館平定の際は、速やかに開拓の教導などの方法を施設し、人民繁殖の域とするが為には、利害得失の各意見は忌み憚り無しとする事を申し出でます。」

上記の文面に於いて私が、「アイヌ(土人)」では無く、「アイヌ(民)」という記述を行った事には訳が有るので、下記の〔4〕で解説する。

蝦夷地開拓と大陸側への侵攻戦略図

蝦夷地開拓(北海道開拓)と大陸側への侵攻戦略図

〔4‐1771年(明和8年)ウルップ島-マカルル島とアイヌ〕

「一旦、アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし、アイヌ(土人)を煽動する者が居れば、その時は、その災いが、たちまち函館松前にまで及ぶ事は必然」との記述がある。

『開拓使日誌』の原文にも、

「一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スル者有レ之時ハ其禍忽函館松前へ延及スルハ必然ニテ」

というように「民」の記述があるだけではなく、この文面を記述するに至った前例がある事だろうと分析できる。

したがって、これまでに提示してきた資料とは別の資料から、その前例を提示する。

下記の資料は、「昭和7年9月10日印刷、15日発行」の『維新前 北海道変災年表』である。

御覧頂くと御分り頂ける通り、

「1771年 明和8年:夏エトロフ、ラショワの土人団結し、ウルップ、マカルル島にて、ロシア人数十人を撃殺す。」

上記の記述があるが、これ以前に邦人が目撃した、ロシア人を襲撃するアイヌの姿は明確ではない。

また、〔1〕と〔2〕で解説している通り、明治政府が蝦夷地を開拓・統治するにあたって邪魔な存在となっているのは、アイヌと外国人(ロシア人)である事が判るが、両人種が互いに争い、その勢力が衰退する事を目論むのならば、『開拓使日誌』に記述されているように、「一旦、アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし、アイヌ(土人)を煽動する者が居れば」、明治政府側は痛手を負わずに、両人種の勢力を衰退させる事ができるのである。

したがって、『開拓使日誌』に、記述されるに至った前例を指摘する事ができる事となる。

これらは、2013年及び2016年と2017年も記述していた内容であるが、データが飛んでいる為、再掲する。

以上、〔1〕~〔4〕までに記述した内容が、《仁和寺宮(小松宮彰仁親王-伏見宮)と蝦夷地開拓の暗号公文書(明治維新)》に関しての解説である。

また、ここに記述した内容により、『第二次世界大戦に至る歴史上の発端はいつであるのか』という事柄及び、

弊WebSiteに記述してある、その他の項目との明確なる関連性を表面的に説明する事ができる。

さて、私が分析し提示している内容に関して、右翼左翼といった思想的な色分けをする事は可能であろうか?

また、これらの内容に関しては、教科書には一切記述されていない史実であるが、これらを熟読されたうえで尚、『関連妄想』であると断言できる医師及び機関は、まだ存在するのであろうか?

(口述にて説明したが妄想と判断され、私は医療措置入院〈精神福祉法第29条を濫用〉という処分を下されていた。2016年11月1日~2017年03月17日)

これらの事柄が明確に存在している『北海道』という地に於いて、

《北海道命名150周年記念》という記念行事を、御目出度い雰囲気にて盛大に執り行う風潮に、私は〝個人的に〟賛同できかねるしだいだ。

《※第125代天皇(平成の今上天皇)の名前は、小松宮彰仁(仁和寺宮・伏見宮)と同じ読みである、『明仁(あきひと)』である。 第125代天皇は、「第二次世界大戦が終戦する以前に生まれている」事から、先述した内容にて、『どのような意味合いで付けられた名であるのか』と、いう事も明確に見えて来るであろう。》

  1. 開拓使日誌に、初めて「北海道」と記述された日付は、『8月15日』である。

  2. 終戦宣言を発表した日付もまた、『8月15日』である。

  3. 125代天皇(平成)の名は、『あきひと』であり、小松宮と同じ名前の読みである。

  4. 元号に『平成』と付けられた事。

  5. 『戦後レジームからの脱却』を政府が標榜している事。

表面的に見てもこれだけ揃っている。 国際社会が、知らないとは思えない状況ではなかろうか。

維新前 北海道変災年表

昭和七年九月十日印刷、十五日発行の維新前 北海道変災年表

尚、下記の画像は、「宮様スキー大会」を運営・協賛している「札幌スキー連盟」「北海道スキー連盟」の上部団体である『全日本スキー連盟』の概要をキャプチャした画像である。

御覧頂くと分かるとおり、『2013年7月30日に〝内閣府〟から公益財団法人として認可を受けている。(北海道スキー連盟も同日認可)』

ちなみに、《明治天皇が崩御した日もまた、〝7月30日〟》である。

即ち、私が

上記3項目にて述べている、北海道及び、スキーというスポーツを利用した〝歴史の捏造〟、

及び〝隠蔽工作〟に繋がってくる可能性が高い事柄の一つとして挙げる事ができるものである。

これらの事柄の相関性及び、確率論から導き出せば、7月30日に内閣府から認可されたのは必然の事柄となる。

※尚、私は、スキー連盟に直接電話を入れ、7月30日に内閣府より認定を受けたのか否かの確認を行った所、間違いなく7月30日に認定を受けたとの事であり、公益財団法人として〝実務を開始したのが8月1日〟との事である。(証明可能)

初代近衛師団長である仁和寺宮(小松宮)の命日~埋葬日を今一度ご覧頂きたく思う。 2月26日である事が重大な鍵である事は明らかであろう。

さて、226事件の首謀者である可能性が極めて高い〝秩父宮〟が始めた『宮様スキー大会』に関連・関係している皇族は何人居るだろうか?(秋篠宮杯だけが無いが、眞子様に競技スキーを薦めたのが三笠宮寛仁親王だそうだ。)

全日本スキー連盟(明治天皇崩御の日7月30日に内閣府より公益財団法人の認定がなされる)

スキー連盟;2013年7月30日に〝内閣府〟から公益財団法人として認可を受ける

※下記の画像は、蝦夷地の開拓を任命されていた清水谷侍従が、トカゲの尻尾切りで明治9年に不正登書で摘発された旨の公文書である。

【公安関係者≒宮内庁関係筋からのリーク情報と私の社会的信用毀損工作と危険行為】に記述してある事及び、

天皇家の秋篠宮と統一教会(自民党清和会)の繋がり(自作自演)に記述してある事も御読み頂ければと思う。

※尚、私が様々な公的組織及び公的立場の者達から裏工作などの標的とされている理由、及びその動機は、私の祖父が第二次世界大戦中に招集された部隊が『平成の天皇が皇太子であった時代の近衛師団(近衛兵)であったから』である事を述べておく。 標的にされてきている事柄に関する代表的事案の詳細は、私が直接巻き込まれた『札幌連続ガスボンベ破裂事件』を御読み頂きたい。

北海道開拓の清水谷侍従職 明治9年不正登書でトカゲの尻尾切り(公文書)

明治九年五月十二日、華族の清水谷公考侍従に対し不正登書容疑で出頭命令が下る

【小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひと)《仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあき)》に関する概要】


続柄:伏見宮邦家親王第8王子。

身位:親王。

敬称:殿下。

出生:1846年2月11日(京都)。

薨去(死去):1903年2月18日~26日(満57歳没)東京府。

埋葬:1903年(豊島岡墓地)。

配偶者:有馬頼子。

子女:依仁親王(養子)。

父親:伏見宮邦家親王。

母親:堀内信子。

役職:元帥陸軍大将、近衛師団長、参謀総長、博愛社総長→日本赤十字社初代総裁、

大日本水産会会頭、大日本山林会総裁、大日本武徳会総裁、高野山興隆会総裁 他多数。

小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう、弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 明治36年(1903年)2月26日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。仁和寺宮嘉彰親王と同一人物。

伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。

【経歴】

安政5年(1858年)、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。

慶応3年(1867年)、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや よしあき)親王と名乗る。

明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。

戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。

明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める。

明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、

また、同10年(1877年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。

明治14年(1881年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。

翌明治15年(1882年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。

親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。

明治23年(1890年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。

明治31年(1898年)に元帥府に列せられる。

国際親善にも力を入れ、明治19年(1886年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。

また、明治35年(1902年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。

社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。


【年譜】

弘化3年(1846年):降誕。

安政5年(1858年):親王宣下・嘉彰親王。入寺得度・純仁と号す。

慶応3年(1867年):王政復古・復飾を命じられる。

明治元年(1868年):軍事総裁、海陸軍務総督、軍防事務局督、軍務官知事、会津征討越後口総督。

明治2年(1869年):兵部卿、辞職。

明治3年(1870年):宮号を東伏見宮に改める。イギリス留学、議定。

明治6年(1873年):帰国、陸軍少尉。

明治7年(1874年):佐賀の乱。佐賀征討総督。

明治9年(1876年):陸軍戸山学校長、兼議定官。

明治10年(1877年):東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官。

明治11年(1878年):東部検閲使。

明治13年(1880年):陸軍中将・近衛都督。

明治15年(1882年):小松宮と改める。大勲位菊花大綬章。

明治19年(1886年):欧州差遣。

明治20年(1887年):帰国・近衛都督・日本赤十字社;初代総裁。

明治23年(1890年):陸軍大将。

明治24年(1891年):近衛師団長。

明治26年(1893年):兼議定官。

明治28年(1895年):参謀総長、日清戦争征清大総督、大勲位菊花章頸飾。

明治31年(1898年):元帥・日清戦争征清大総督辞職。

明治35年(1902年):英国国王戴冠式差遣。

明治36年(1903年):薨去、国葬。


【小松宮家】

明治14年(1881年)、彰仁親王は永世皇族となる。

もともとは一代限りの皇族であった。

明治18年12月、子どものいなかった彰仁親王は、伏見宮邦家親王の十七男依仁親王(当時の名前は定麿王)を養子に迎えた。

しかし、しだいに依仁親王を排除し、北白川宮能久親王の四男輝久王を後継者にしようと考えるようになった。

明治35年4月、宮内大臣の田中光顕に臣籍降下し、輝久王を養子に迎えることを願う。

田中が難色を示すと、彰仁親王本人が臣籍降下を断念する代わりに輝久王を臣籍降下させて侯爵として財産を相続させて、依仁親王を別家させることを願った。

その結果、明治36年1月、依仁親王との養子縁組は解消されて、依仁親王は東伏見宮家を創設した。

ただし、輝久王の臣籍降下は認められなかった。

明治36年2月、彰仁親王は亡くなり、頼子妃らは輝久王の小松宮家相続を願ったものの、認められなかった。

そのため、小松宮は一代で断絶することになった。

しかし、明治43年(1910年)7月20日、輝久王は臣籍降下し、小松輝久侯爵と名乗り、小松宮の祭祀を継承した。


【血縁】

父:伏見宮邦家親王。

母:同妃鷹司景子。

兄弟(姉妹は省略):晃親王、嘉言親王、譲仁親王、朝彦親王、男子、貞教親王、男子、彰仁親王、能久親王、男子、男子、博経親王、智成親王、貞愛親王、清棲家教、載仁親王、依仁親王。

妻:有馬頼子。

子:(養子)依仁親王。

■参照元:wikipedia(小松宮彰仁親王)

小松宮彰人親王(仁和寺宮‐伏見宮)

軍人皇族の小松宮彰仁親王

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